カルカッソンヌからアヴィニョンへ
カルカッソンヌの旧市街(城壁内部)観光を終え、次の目的地、アヴィニョンへ向かいます。
車窓からとった写真なので、あまり鮮明ではありませんが、ここがベジエです。
ベジエといえば、アルビジョワ十字軍の最初の犠牲を出した町です。包囲した十字軍の兵を率いる隊長がローマ教皇庁から派遣されてきていた使節に訪ねます。
隊長「どうやって異端のカタリ派とカトリックを見分けるのでしょうか?」
使節「選別は神の仕事、我々の仕事は神の身元に送り届けること(=全員皆殺しにしろ)」
当時の戦争の常識では教会内に逃げ込んだ者は殺害してはならない、というルールがありました。しかし、この戦争ではこのルールは無視され、教会内に逃げ込んだ市民も全員虐殺されました。
なかなか立派な城壁だと思いませんか?
中世、こういった城壁の外には、人がすむことはなかったのでしょうか?都市が大きくなればそれはないですよね。それともきっちりみんな城壁の中にすんでいたのでしょうか?
答えは、税金を払える、つまり所得のある人だけが城壁の中に住むことができました。そうでない人や新しくよその土地から移ってきた人たちは城壁の外に家をつくって住んでいました。
戦争の際、城外の人は…城内に避難することは許されませんでした。
アヴィニョンはアルビジョワ十字軍の頃、神聖ローマ帝国の領土内でトゥールーズ伯の領地もありました。トゥールーズ伯は今で言うフランス国内の広大な領地と神聖ローマ帝国内にもおおきな領地をかかえていたのでした。もちろん、フランスの王家よりはるかにその所領は広大で裕福でした。国家という概念は当時、ありませんでした。
さて、十字軍のとき、この町の運命はどうなったと思いますか?
じつは、ローマ教皇庁の預かりとなり戦火を避けることができたのでした。トゥールーズ伯が破門をとかれると領地アヴィニョンも伯に返されます。その後、トゥールーズ伯は何度も反乱を起こします。2回めの蜂起で、再度トゥールーズ市を包囲したシモン・ドゥ・モンフォールが投石機の石で頭を砕かれるとシモン・ドゥ・モンフォールの息子、アモリーは領土を維持することができずカルカッソンヌを追い出され、パリに戻ります。パリではフランス国王にカルカッソンヌの領主としての権利を売却しました。
その後…フランス国王は対立するフランドル伯や、ボルドーと英国に所領をもつプランタジュネ家との抗争を優位にすすめることに成功します。そこで、購入したカルカッソンヌの領主としての権利を行使するためラングドックに攻め込みます。攻め手はルイ8世みずから軍を率いて南下します。その際、アヴィニョンはトゥールーズ伯側にたち、攻城戦となりました。結局、包囲中にルイ8世は赤痢で死亡します。
アルビジョワ十字軍とその後のフランス王家によるラングドック併合が完了したあとの時代の話。フランス国王フィリップ4世はボルドー司教ベルトラン・ド・ゴーがクレメンス5世にリヨンで即位するとそのままアヴィニョンに滞在させることに成功し、1378年までアヴィニョンとローマの二箇所に教皇庁が存在したのでした。このイベントを教皇のアヴィニョン捕囚といいます。
この当時のフランス国王とその顧問官は優秀だったのでしょうね。アルビジョワ十字軍の故事から学べるのは、トゥールーズ伯家は第一回十字軍にも参加したローマ教皇庁にとっては友人といってもいい良好な関係にあるべき間柄でした。にもかかわらず十字軍の標的にされてしまったのです。教皇が変われば姿勢も変わる。逆に言えば、教皇を支配できれば王権を高めることにつながり諸侯を服従させられる、とフランス王家とその顧問官らは考えたのかもしれません。この時のフランス王家の側につくパリ高等法院とローマ教皇庁とのやりとりを堀田善衛は大変興味深く描いています。このときに初めて外国人という名称がつかわれたそうです。
いろいろ複雑な歴史を持つアヴィニョンですが、残念ながらカルカッソンヌやケリビュスのあとでは両親の反応は薄かったのでした。
私が初めてアヴィニョンへきたときは、「おお~」と思ったものでしたが…
順番がちょっと問題だったかもしれませんね。
駅から城壁でかこまれた旧市街のゲートをくぐって市の中心部に出る道です。
目抜き通りを広場にむかってむかいます。昔はこの通り、たくさんのお土産屋が並んでいたのですが、今回は金融機関ばかりならんでいました。ソシエテ・ジェネラルやBNPパリバのような日本でいうところのメガバンクというより、聞いたことのない
会社名がならんでいました。おそらくは…住宅ローン専門の会社か、昔の日本の消費者金融のような会社だろうと思います。
教皇庁宮殿です。
結構、巨大です。
この教皇庁宮殿には学生時代から数えると3回たずねていることになります。学生時代に初めて訪問した時、この広大な宮殿の中は空洞というか空っぽでした。フランス革命の際の略奪でなにもかもうばわれてしまったとの説明でした。
前回、そして、今回、気づいたのは、当時のものもではない、レプリカだったり、関連する資料を展示して、イヤホンガイドを有料で貸出し、観光客にその説明をきかせるという変化でした。正直、過去をしっているので、ちょっとやり過ぎ?と感じました。
おそらく、ヨーロッパ中から観光客がおしよせ、滞在時間が増え宿泊してもらえるように、発注したのだろうと思います。ここアヴィニョンに限らずフランス全土に共通してみられる変化です。結果、どの観光地も同じような雰囲気かなあ、と感じました。それでも建物の美しさは感じさせてくれる歴史の面白さは不変ですが。
アヴィニョンは旧市街の建物群、教皇庁などのシンボル、美術館などみどころいっぱいです。もちろん、プロヴァンス地方をめぐるバスツアーが出発する拠点でもあります。
Sur le pont d'Avignonの曲「アヴィニョン橋で踊ろう」のそのアヴィニョン橋です。
ちなみにこの橋は対岸までいけません。
Sur le pont d'Avignonの曲です。
今回のルートです。